La ninfea misteriosa:
ふしぎな睡蓮
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「ふしぎな睡蓮」 COROMICO
この夏、ある寝苦しい夜に、不思議な夢を見てから、無性に蓮の花が見たくなりました。
夢というのは、こうでした。
ある日、早起きして池のほとりに歩いていったら、とても小さな小さな
蓮の花が咲いていて、かがみこんで手のひらで水をすくうと、その中に
白いお花がふわっと浮かび、歩くたびにその震動にあわせて、手の中で
ちゃぷちゃぷと揺れるのでした…。
次の日、植物園に行った時、ふと入り口でもらったマップを見ると、
「茶碗蓮がさいています」という文字が目に入ってきました。
きっとそこには、夢で見たような、小さな小さな蓮の花が、小さなお茶碗の
中にお行儀よくおさまって、無数にぷかぷか浮いているに違いない……。
「これだ」と思い、急いでそこに行ってみると、茶碗とはちょっと言い難い、コントで落ちてくる金盥くらい大きなオレンジ色の鉢の中から、はみ出さん
ばかりに大きな蓮がダイナミックに葉を反り返らせていました。
その花はわたしの顔よりも大きく、大きな葉っぱはもうちょっと背丈が
あれば、そのまま日傘のかわりになりそうなくらい、強い陽射しの下で
さらに葉を上に伸ばし、照りつける光をぎらっと反射させていました。
京都では連日猛暑日が続き、10分くらい出歩いただけで、もう汗が全身から
噴き出してくるくらい熱い、真夏の日のことでした。
「これはちょっとちがう…かもしれない」
暑さに弱いわたしは、額から汗をだらだら流しながら、逃げ出すように
その場をあとにしたのでした…。
それから数日たってからのこと…。
朝、ふと寄ってみた近所の神社の中で不思議なものを見つけました。
お茶碗…というには少しだけ大きいものの、十分小さな藍の陶器のうつわの中に、
小さな小さな黄色いお花がお行儀よく並んで、ぷかりぷかりと気持ちよさそうに
浮かんでいました。
小さなお花は、まるで蝋細工で作ったかのように繊細で、少し透き通っていて、
お茶碗の中でちょっと風が吹くだけで、ふわりふわりと揺れ動いてしまいます。
その周りには、もっともっと小さく微細な水草が、かわいらしい形をして漂い、
まるで美しい蓮が咲いたことのお祝いに、小さなお花をまき散らしたみたいに
見えました…。
お祭りの準備をしていた宮司さんが教えてくれました。
「これは睡蓮や。こないしたら小さな鉢の中でも育ちますのや」と。
それ以来、すっかり不思議な睡蓮の世界のとりこになってしまい、夢で見たような
小さな、風に揺れるような睡蓮を探し求めて、池のあるところと聞くと、行かずには
いられなくなってしまいました。
ずっと見ていると、睡蓮というのは、つくづく不思議なものだな、と思えてきます…。
水面から葉も花も高くのび、ぐっと身をもたげて上へ上へ伸びていこうとする蓮の花は、おなじ水生植物でも、陽の存在。
お花も、植物園でわたしがびっくりしたように、とても大きくなるものも少なく
ありません。
小さな小さな葉も、透き通ったそのお花も水面にぴたりと寄り添うように浮かび、
そうっと少しだけ水面から顔を出すように花を咲かせる睡蓮は、どちらかというと、
蔭の存在。
光を求めてどんどん上に伸びようとする蓮よりは、もっとずっと水に近くて、水の
色を映して透き通るように咲く小さなお花を見ていると、夏の暑さの盛りの日でも、
何だか涼しい気持ちになれそうです。
日本では蓮と睡蓮は似たようなものだと思われがちですが、イタリアなどでは
蓮を"Loto(lotus)”、睡蓮を”ninfea"と言うように、別の存在として区別している
ようです。
蓮の自生地の少ないヨーロッパでは、蓮はエジプトやアジアの遠い国々に咲く、
神秘的でエキゾチックな存在、一方、睡蓮はもう少しだけ身近な存在で、
水への憧れや恐怖や水の世界への想像力を投影した、ふしぎな植物と考えられていたような気がします。
中世からロマン主義の時代にかけては特に、水辺というのは森と同じように、
文学や詩の世界では隔絶した、美しい理想郷のような世界として描かれる一方で、現実では、すでに観光地化した特殊な泉や湖をのぞいては、人が踏み込むことの
できない、何が起こるかわからない、不気味で恐ろしい場所として避けられていた
という歴史もあります……。
その名前もとても不思議で、"ninfea"とはニンフのような、つまり水の精という
意味なのですが、それとよく似た"ninfeo"はニンフを祀った神殿、あるいは噴水、
水生植物の庭園という意味もあります。
そういわれてみると、睡蓮の、花びらをふわっとひろげたその姿は、噴水の水が
きらきらと光りながら舞い落ちる様子に似ているような気がしてきます。
また、”giglio d'acqua"(水上の百合)という呼び名もあり、こちらは聖母マリアの
イメージも含んだ、神秘的で宗教的なイメージに近いように思います。
一方で、水の精やニンフは、詩などでは美しい娘たちのイメージとしてよく歌われる
ものの、異教の存在として、畏怖され、遠ざけられてきた存在でもありました…。
晴れの日も、雨の日もそれぞれに姿を変えていく睡蓮をじっと見ていると、そんな二つの相反するイメージにはさまれていることが何となくわかる気がしてきます。
美しい水色をした晴天の日の水面にうかぶ睡蓮は、光を透過させてよりいっそう
透明にきらきらと輝き、穏やかな優しさ、希望や慈愛のようなものがじんわりと
伝わってくるような気がします。
一方、雨や嵐の荒天の日に見る睡蓮は、お花の色がよりいっそう濃さを増し、
濃密で、妖艶といっていいほどの妖しい美しさに変わります。
強い嵐の中で、風にたなびきながらも決して失われることなく、一つ一つが、
水面から小さな顔を懸命に出して、激しく波立つ荒れる水面で必死に嵐に耐えて
いる様子は、おぼれて懸命に救助を待っている子供のようでもあり、また、美しい
女性を装って、見つめるものを水の中へ誘い込もうとしている水の精のようにも
見えます。
「モネがあんなにも何枚も、睡蓮の絵を描き続けたのも無理はないな…」
自分が撮ってきたばかりの睡蓮の写真を見ながら、お部屋に飾ってあるモネの
ポストカードをぼんやりと眺めていた時、思わず、口の中でそうつぶやいていました。
どちらも同じ植物なのに、光や天候によって、こんなにも表情を変えるとは、と
ため息をつくような気持ちと、それなら曇りの日は、朝日が射しはじめたばかりの
時は、夕暮れの光の中ではどうなるだろう、と、思い始めると、もうそれぞれの瞬間を見たくて、いてもたってもいられないような気がしてきました…。
睡蓮という植物がこんなにもふしぎなのは、もしかしたら、どの植物よりもずっと
水に近い存在で、水面が光を反映して、空の色、木々や建物を反転させて映すのと同じように、その透明な花びらにその時々に移り変わる水の色と、光の色を
反映させて浮かび続けるからなのかもしれません。
23.Agosoto.
c.f. ガストン・バシュラール 「水と夢―物質的想像力試論」2008.
“Die Lotosblume” Heinrich Heine
(“Myrthen”o.p.25 Robert Schumann)
Die Lotosblume ängstigt
Sich vor der Sonne Pracht,
Und mit gesenktem Haupte
Erwartet sie träumend die Nacht.
Der Mond,der ist ihr Buhle,
Er weckt sie mit seinem Licht,
Und ihm entschleiert sie freundlich
Ihr frommes Blumengesicht.
Sie blüht und glüht und leuchtet,
Und starret stumm in die Höh;
Sie duftet und weinet und zittert
Vor Liebe und Liebesweh
“Die lotosblume” (“Myrthen” o.p.25)
Robert Schumann sop. Barbara Bonney
「睡蓮の花」 ローベルト・シューマン
「睡蓮の花」
睡蓮の花は
太陽の輝きを怖れて
うなだれ夢みながら
夜の訪れを待っている
月は彼女の愛する恋人
その微かな光に目覚め
嬉しげにヴェールを取り
彼に初めて優しい花の顔を見せる
花は咲き、色づき、輝きを増し、
沈黙して空を見あげる
香り、震え、涙を流す
愛とその痛みのために
“Die stille lotosblume” (“6Lieder” o.p.23)
Clara Schumann Wieck sop.Claudie Verhaeghe
「たおやかな睡蓮の花」 クラーラ・シューマン
「ふたつの睡蓮」 COROMICO
ローベルト・シューマンの”Die lotosblume"が、睡蓮が月に恋する詩なのに
対し、クラーラ・シューマンの”Die stille lotosblume"はその逆で、月夜に
花ひらく美しい睡蓮を思って歌いながら死んでいく白鳥の姿が描かれています。
月夜の睡蓮というおなじ情景でも、視点の微妙にちがう二つの詩と曲を
聞き比べてみると、ふたりがまるで歌で会話しているような、ふしぎな情感を
感じられる気がします。
ローベルトのこの曲は歌曲集「ミルテの花」におさめられ、クラーラとの結婚の前夜に、彼女に贈られました。
詩の中の、ヴェールを外す花嫁のイメージは、そのままクラーラに重ねられていたのだと思います。
クラーラの「たおやかな睡蓮」はその2年後に書かれました。
エマニュエル・フォン・ガイベルによるこの詩は、睡蓮に恋をする月の姿を
描いた、ハイネの”Die schlanke Wasserlilie”(たおやかな睡蓮)の影響を
受けているともいわれ、月に恋する睡蓮は、彼女を想う白鳥(若者)の想いも
知らぬげに、静かに美しく咲き続けています。
水面を静かにたゆたうようなこの曲を聴いていると、結婚後2年たっても
変わることのない、クラーラのローベルトに対する想いのようなものが
伝わってくる気がします…。
個人的には、ローベルトの”Die lotosblume"を聴くと、なぜかいつも鼻の奥がつんとして、涙が出そうになってしまうので、大事なことの前にはなるべく
聴かないようにしているのですが、そんな時に限って無性に聴きたくなるので困っています。
10年近くも様々な紆余曲折があって、ヴィークの強い反対や妨害のために
引き裂かれたりした日々の後に、初めて一緒になれる日を目の前にした
シューマンの切実な祈りや強い想いがダイレクトに伝わってくるから
でしょうか…。
その熱い思いを受け止めるような、クラーラの静謐な歌曲もとても美しく、
抑えた中からも愛情や信頼があふれ出してくるような感じがします。
睡蓮の花期は9月くらいまでなのですが、月が冴え冴えと輝く、秋の夜が
近づくと、いつも聞いてみたくなる、わたしにとってとても大切な曲です。
28.Agosto.