Giardino: お庭とガーデン
もどる
お庭やきれいに作り込まれたイングリッシュ・ガーデンの様子などは
ふだんあまり撮らないのですが、ちょっとがんばって日本庭園の中に
おじゃまして、小さな空間に凝縮された自然の姿を撮りました。
ガーデンミュージアムや大山崎山荘の、すてきなガーデンの様子も
もしよかったら、季節を越えていろいろな場所をお散歩しているようなゆったりとした気持ちでごらんください。
「たのしい日本庭園」 COROMICO
はずかしい告白になりますが、実は、つい最近まで、日本庭園というものがあまり大好きというわけではありませんでした…。
あまのじゃくな性格なので、誰もが愛でる、絶景的な美しいお庭や、これが
京都だ、というような名所になんか行かないぞ、と心に決めていた時期さえ
ありました。
自然の中の風景や野原と違って、きちっと作り込まれた日本庭園や建築は、見方が限定されるというか、この角度から、この位置からこう見るように、そうすれば絶景が広がっていますよ、と指定されているような気がして、
何となく敷居が高かったからです。
特に10代の頃には生意気盛りだったので、「そんな絶景的な美しさなんか
じゃない、もっと全然違う角度から自分なりの美しさを見つけてやるんだ」と
息巻いていました…。
それが、ある日、悟りを開いてから、不思議なことにだんだんお庭めぐりをするのが楽しく、好きになってきました…。
ちょうど三千院のお庭に生える菩提樹の下で、苔の新緑の美しさに夢中に
なりながら住職の説法を聞いていた時のことでした。
それは、お庭はお庭でも、ふたつの要素の二部構成になっている、
ということでした…。
つまり、かちっと隙なく構成され、視点や立ち位置など、緻密な計算に
よって作り込まれている、いわゆる自分が思い描いていた日本庭園が
第一部…。
そして、美しく構成されているけれど、もっと自由に、草木たちがのびのびと生え、季節のお花たちが季節ごとに咲き乱れる、親しみやすい自然な感じの庭園が第二部として、二本立てになっていることが多いということに……。
たとえば金閣寺で言えば、金箔の張り巡らされた書院が池に浮かぶ
荘厳な情景が第一部、そして、第二部として、やや自由に、池の中に浮かぶ小さな島の中に様々な樹が生い茂っていたり、細い滝まで流れていて、
小さな空間の中にぎゅっと閉じこめられた様々な自然の姿をうかがい知る
ことができます。
龍安寺で言えば、緻密に構成された石庭が第一部、そして第二部として、美しい池が広がり、その中には睡蓮が浮かび、池の周りには桜やつつじや様々な季節の花たちがいっせいに取り囲み、季節ごとに優雅で美しい
色とりどりの情景を見せてくれます。
つまり、前半で緊密に構成された庭園の、ぎゅっと気の引き締まるような
隙のない美しさを見せた後、後半の、色とりどりでより自然なお庭の、
自由さ、気取らない美しさで心を解きほぐしてくれる、という、極めて粋な
演出だったのでした…。
友達は、ふざけて日本庭園のゴシック様式とロマネスク様式や、と
言っていたのですが、めりはりの効いた二つの庭園の演出で、一つの場所で2つの味わいを同時に魅せるという、心づくしがそこにあるような気が
します。
それに気づかずに、今までかたくなに、金閣寺は、金箔の書院の方
じゃなくて、池の中にある島の方がずっといい、とか龍安寺は石庭じゃなくて池の方しか見ない、と言っていた自分が、何となくはずかしい気が
してきます…。
個人的な推測ですが、もしかしたら、古い古い昔には、どちらか一つしか
なかったのかもしれません。
あるいは、美意識や価値観が変わるにつれ、自然な庭園を廃止して、
緻密に構成された枯山水の庭や威風堂々とした寺院建築などが主流に
なった時代があったのかもしれません。
それでも、小さな空間でもどこかにいつも自然を感じて、ほっとしていたいという心が、しだいに、のびのびと季節の草花が生い茂る庭園も求め、
両方とも実現させようということになったのだろうか、などと考えながら
歩いていると、お寺という場所がだんだん親しみのある空間のように
感じられてきて、愛着がわいてきます。
お寺や神社に広がる庭園は、そんな歴史的な経緯と、様々に移り変わる人々の思いが残してくれた、とても贅沢な空間なのかもしれません…。
20.Luglio.