Blumenstucke: お花たち
まだ小さかったつぼみから花が開いて、やがて色あせて、散っていくまで……。
一生懸命生きているお花たちのあるがままのいろいろな姿を見たくて、いろいろな場所に行きました。
季節を越えて、お花をめぐって歩く、小さな旅をしているような気分でのぞいてみてください。
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「お花のいのち」 COROMICO
昔、ベニシアさんが「イギリスでは、お花がしおれても、生きているそのままの
姿を大切にしたいから、枯れるまで大切にとっておきます」と言うのを聞いた時、
とても新鮮な驚きが心の中に広がったことを覚えています。
その後、ルドゥーテの細密な植物画を見て、「ああ、ここにも…」と何だか、心に深く納得できた気がしました。
美しく咲き続ける一番美しい時のばらの姿だけでなく、葉に小さな虫がとまった
姿も、美しかった花びらがやつれはじめて、その外側が少し茶色く、ちりちりと
カールしかけた姿も…。
そして、虫に食べられた緑の葉の葉脈が透けて、透明なレースのようになって
きた姿も、ルドゥーテは、修飾せずにありのままに描きました。
その力強くて繊細な表現は、ガラスのように脆くこわれやすい、あやうげで
繊細な美しさだけでなく、植物が生きる、その強くあるがままの姿の中に、
たとえやつれ、壊れかけていく時にさえも、しっかりといのちの美しさは宿って
いるんだ、と教えてくれているようでした。
彼のことをよく知らなかった頃、ただただ優雅で美しい宮廷画家と
思っていたのですが、そんな、お花たちとあるがままに向き合う姿を見て、改めて少し好きになり、ルドゥーテの絵を愛した、マリー・アントワネットもまた、実は、
飾り気のない、自然な姿を大切に思う、そんな人だったのではないか、という気がしてきました…。
母は縁起を大切にする人で、小さい頃は、わたしが生けたお花が
しおれてくると、「見る人も元気がなくなるからすぐ取り替えなさい」とよく
言っていました。
それも一つ、お花から生命力をもらうというすてきな発想なのですが、愛情を
もって、咲き始めの初々しいうれしげな姿から、満開の時を迎えて、やがて
少しずつシックな色に変わり始め、やがて枯れていくまで、ずっと見守ることが
できたら、どんなに素敵だろうとずっと思っていました。
お花を見に行く時、撮影に行く時は、いつもそんな二つの思いの板挟みに
なって、毎回、人知れず葛藤することになります…。
京都の桜や紅葉の美しい場所に行ったりすると、時々、「まだ早いわ」とか
「もう終わりかけやな」と言う声が聞こえてきたりして、がっかりしそうになることが
あります。
その時は、「そんなことはない。今あるがままのこの美しさを見つけるんだ」と
意気込むのですが、一方で、「満開ならそれにこしたことはない」と心のどこかで
思う自分もいて、毎日、開花情報を神経質にチェックしたり、「もう終わっていたら
どうしよう」と戦々恐々としてしまったりします。
希望としては、天気予報も、開花予想も全然調べないで、行ったら
行ったときの、あるがままの状態を楽しんで、つぼみでも、散っていても、
枯れかけでも、いつでもその時その時にしかない、自分だけの美しさを
見つけられる…、というのが理想なのですが、なかなか勇気がなくて、
何もなしに、あるがままの美しさに飛び込んでいけないでいます…。
でも、「終わりかけなのかな…」と不安に思いながら行ったら、思いがけずに、
色が微妙に変わり始めた花びらの色の、シックな、まるでアンティークレースの
ような美しさに出会うことができたり、「まだ早いかな…」と思って行った時に、
まだ小さく堅いつぼみの、思わぬ強さを秘めた、ぎゅっと凝縮された美しさ、
その色合いの何ともいえない匂い立つような美しさに心打たれて、しばし
その場に立ちすくむことがあります。
そんな一つ一つの出会いや発見があるたびに、自然が、いつもありのままで、
人の思い通りにいかないものでよかった…と心の奥から思います。
このページは、そんな美しさの世界におそるおそるまだ足を踏み入れた
ばかりのわたしが、一瞬一瞬の出会いに助けられながら撮ったお花たちの
姿です。
満開の、花盛りの時ももちろんすばらしいのですが、風に散って少なくなって
しまった花びらや、苔の上に落ちたお花、舞い散った花びらが水面に浮かぶ姿、
あるいは、寒空の中、一生懸命その中に力をためて開く時を待っている小さな
蕾など、その時にしかないお花たちの生きる姿を、どうにか写真にして
現すことができたら、と思っています。
そして、これからもきっと、まだ知らなかった美しさ、お花たちの思いがけない様々な姿に出会うために、心を開いて追いかけつづけたいと思います。
前に岩船寺の住職さんがおっしゃっていた言葉を心において…。
「自然に見頃はありません。いつでも、心にふれて美しいと思った時が
その時なんです」。
20.Luglio.
“Meine Rose” Op.90
(Sechs Gedichte und Requiem)
Robert Schumann Br. Hermann Prey
「わたしの薔薇」
(『6つの詩とレクイエム』)
「Meine Rose」
(Nicolaus Lenau / Robert Schumann)
Dem holden Lenzgeschmeide,
Der Rose,meiner Freude,
Die schon gebeugt und blasser
Vom heissen Strahl der Sonnen,
Reich ich den Becher Wasser
Aus dunklem,tiefen Bronnen.
Du Rose meines Herzens!
Vom stillen Strahl des Schmerzens
Bist du gebeugt und blasser;
Ich möchte dir zu Füssen,
Wie dieser Blume Wasser,
Still meine Seele giessen!
Könnt ich dann auch nicht sehen
Dich freudig auferstehen.
「わたしの薔薇」
(ニコラウス・レーナウ / ローベルト・シューマン)
気高い春の宝石
ばらよ わたしの喜びよ
きみはもうしおれ 色あせてしまった
太陽の熱い光のために
わたしは一掬いの水を注ごう
暗く深い泉から汲んだ水を
わたしの心のばらよ
苦しみの静かな光のために
きみはもうしおれ 色あせてしまった
わたしはきみの根元に
花に与える水のように
静かにこの魂を注ぎたい
たとえもう再びみることができなくても
きみが生き生きと甦る姿を
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