L'erbette: 小さな草花たち
野原で風に揺れる小さな草花や、山や森の中でひっそりと咲く小さくて不思議なお花たちや、秋や春の色とりどりの野原の様子です。
もどる
「いとしい草花たち」 COROMICO
小さな草花たちのことを考えると、いつも心によみがえってくる光景があります。
それは、わたしがまだ小学校にあがったばかりの頃、なかなか来ない同級生の友達を近くの空き地で待っていた時のこと…。
その子が来るまで、何気なくしゃがみこんで小さな草花を見ていたら、その一つ
一つの小ささ、色彩の淡さ、小さな中にもおどろくべき緻密さで作り込まれている
その造形の美しさにすっかり夢中になってしまいました。
ちょうど4月がはじまったばかりの野原が一番美しく、萌え出たばかりの
色とりどりの草花で彩られる、にぎやかな季節の朝のことでした…。
歩くたびに、たんぽぽの優しい黄色が光に照らされ、おおいぬふぐりの小さな
小さな、目にも涼やかな青が風に震えるようにそっとそよぎ、なずなの淡く白い
お花が、緑の野原に雪が降ったようなやさしい色を添え、風が吹くと、人には
聞こえない小さな音でりんりんと鳴っているように見えました…。
それ以来、何気なく道を歩いていてもいつも家々の軒先で揺れている、小さな
お花や、ほおずきの赤い実や、道路の片隅にこぼれるように咲く、小さな小さな
草花たちが気になって仕方なくなって、時に道草しすぎて学校に遅れそうに
なることもありました。
日本に来たばかりの日系アメリカ人の女の子が(草花の)わるくちを言って
いるのを聞いて、とてもくやしくなって泣いてしまったこともありました。
わたしがとっておきの場所といって見せた草花たちの野原を見て、こう言ったから
でした。
「日本ってへんなくに。こんな花が道路にもいちいち咲いてるなんて」と…。
その時は無性にかなしくて、家に帰ってからも泣き出してしまったことをよく覚えて
います。
そんなわたしは、外庭そうじの時にも草を抜くことができなくて、みんなが抜いて
きて集めた草花を、「わたしがもっていく」と言って受け取って、ひそかに見ていないところで植えなおしたりしていました…。
花壇のお花は踏まれたり傷つけたりしたら怒られるのに、おなじお花なのに、
草花だからという理由で無条件に踏んづけられたり抜かれたりしなければ
いけないということがどうしてもわからなくて、こんなにも美しいお花たちがそのまましおれていくのを見るのがどうしても耐えられなかったからです…。
もちろんそんなことは許してもらえなくて、わたしは先生から呼び出されてきつく
しかられ、植え直した草花たちは再び抜かれて炉に投げ込まれ、あるいは
マッチョな体育の先生に持っていかれ、抜かれた草をいったんおいておくところへ、
どさっと投げ出されました。
色とりどりに咲いていたお花たちは、死せるオフェーリアのように、みるみるうちに失われていきました…。
大人になってからも何度かこの出来事は繰り返され、その度に何とも
言えないような切ない気持ちになりました。
たとえば、春の陽射しに光り輝く美しい草花たちの野原を見つけて、夢中になって一日中スケッチをして、次の日、スケッチの続きをしようと思ってわくわくしながら
再びその場所に行ってみると、そこにもう何もなくて、かわりに変わり果てた姿に
なった草花たちがすっかりしおれて横たわっているのでした…。
今でも草花たちを見ていると、幼い時に出会った時のうれしさや驚きと、そして
失われていくことの切なさや葛藤のようなものも同時に心によみがえってきます…。
そのことを思うとき、心に浮かんでくる物語があります。
ラフカディオ・ハーンが「怪談」に記した「青柳の話」がそうです。
昔、能登の若者、友忠が京に向かっていた時のことです。
途中で吹雪に見舞われ、遭難しかけた彼は偶然見つけた一軒の家に入り、
一夜の宿を頼みます。
そこで老夫婦の娘、青柳に出会った友忠は、その美しさ、簡素な身なりの中にも
気品ある立ち振る舞いに心打たれ、彼女を妻として連れ帰りたい、と結婚の許しを請います。
こころよく結婚を許された二人は京に向かい、深く愛しあい、幸せな日々を過ごしていました。
ところが、5年が過ぎたある日のこと、青柳が突然激しく、苦しみはじめます。
驚く友忠に、彼女は自分が柳の精であること、自らの宿る樹を切り倒されてしまったため、死ななければならないと告げて、息絶えてしまいます。
悲嘆にくれた友忠がかつて彼女と出会った場所を訪れると、そこには老夫婦の家はなく、かわりに切り倒された柳の樹の切り株が3つ並んでのこされていました…。
という話なのですが、なぜか草花たちのことを思う時、このお話を思い出して、少し切ない気持ちになります。
切り倒されされてしまった樹も、草花たちも、少しもうらみごとを言ったり、復讐を
しようということもなく、ただ自らの運命を受け入れて、従容と消えていきます。
野の草花たちはたくましくて生命力が強いのだから、とよく言われますが、一本の草の命は世界にただ一つで、その時その時出会える姿は、一つ一つ違う、大切な
存在で、わたしにとっては、そんな風にいつ失われてしまってもおかしくない、
はかなくて繊細な存在に思えます。
だからこそ、いっそういとおしくて、大切にしたいと思ってしまいます…。
わたしが写真を撮り始めた時、何よりも一番撮りたかったのは、そんな、野原に
咲く小さな小さな草花たちの姿でした。
今日、出会えなかったら、もしかしたらもう明日にでも消えてしまうかもしれない、
そんな一瞬の、彼らの一生懸命生きる姿を、せめて自分のつたない写真で残すことができたら…と思うようになりました。
小さな小さな草花たちの世界に入ってカメラを向けていると、本当に奥が深くて、いったん入るとなかなか出られなくなってしまいます…。
なのに、多彩な姿をもつ彼らのかわいらしさや魅力を、まだまだ表面的にしか
とらえられていないな、と感じて落ち込んだり、自分の技術が表現したいものに
全然追いついていないと気づかされて、深く反省したりすることもあります。
それでも野原の中でうれしそうに、うたうように伸び育っていく小さな草花たちを
見ていると、今一瞬しかないときを、小さないのちが一生懸命生きていることを
間近に感じられて、励まされたり力づけられたりします。
小学校だった頃には、その日その日、出会った草花たちを、買ってもらった
ばかりの図鑑で調べて一生懸命一つ一つの名前を覚えたりしていました。
でも、今は、名前を知らない草花に出会っても、あえて名前を調べたり、知ろうと
しない方がいいんじゃないかな、と思うことがあります。
どうしてかというと、名前を知ってしまった瞬間に、心の中ではぐくんできた景色が貧しくなってしまうというか、そのお花のことをもうわかったようなつもりになって、
それ以上深く知ろうとしたり、角度を変えてあらゆる機会をとらえて真剣に
向き合おうとしなくなってしまうんじゃないか…とちょっとこわいからです。
今まで、そんな風に名前を知ってしまって後悔したことが何度かあります。
何というか、それを知ってしまった瞬間に自分の知識が図鑑的になってしまう
というのか……。 一つの植物として、一面的な角度、決まった構図でしか
見られなくなってしまって、その時、自分の中の何かが失われてしまったな、
と気づいた時には遅く、初めてそれと出会った時のような気持ちで再び
向かい合えるようになるのに、だいぶ長い時間がかかってしまいました…。
今では、その名を本当に知るということは、ただ世間で呼び慣わされている
呼び名を知る、とか図鑑で調べて正式な学名を知る、ということではなくて……、
もっともっと、体験的に知るというか、少しでも多くその植物とふれあって、心の中に灼きつけてきた、その草花の咲いている風景を、生きたものとして、たくわえていく
ことなんじゃないかな、という気がしています…。
冬の寒気の中でほとんど土のないアスファルトの割れ目から、顔を出して
誰よりも先駆けて咲く、小さな草花の可憐さ、風で野原の葉がいっせいにそよぐ中、その花だけが静かに静止したようにその場にたたずんで咲いている、不思議な
情景、秋の夕日に照らされる、貴重な秋の花の金色の輝き……。
そういったものに触れて感動したり驚いたり、はげまされたり笑顔になれた、
そんな瞬間を自分の中でどれだけもてるか……、生きた景色をどれだけ心の中に
もてるか、ということが、まだ十分にはできていない自分の中の大切な課題であり、
これからもずっと神経をとぎすませて、更新しつづけていきたいと思っています。
しっかりと守られた園芸用植物の大きなお花たちはそうでなくても、ちいさな
体の中に、おどろくほど繊細な造形を備えた小さな草花たちのいのちは、そんな、
ただ、世で呼び慣わされている名を何気なく呼ぶというだけで、吹き飛んで
しまうくらいはかなげで繊細なもののような気がしているからです…。
6.Aprile.