Eaplorazione:小さなレンズの冒険
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小さな単焦点のレンズをお下がりでいただきました。
ズームすることができなくて、ズームしたいと思ったら、自分が前後に動いて
遠ざかったり近づいたりしないといけない不器用な子ですが、暗いところで
がんばってくれたり、小さな草花やきのこたちを撮る時にはハッスルして大活躍!!
このページではそんな小さな単焦点レンズといっしょに小さな旅に出ました。
小さなレンズは、やっぱり小さなものたちが大好き。
いつもと違うレンズを持ってお出かけしたら、日常の風景もいつもとちょっと違って見える、そんな小さな小さなお散歩旅を、よかったらいっしょにごらんください。
「恋する単焦点レンズ」 COROMICO
つい最近、単焦点レンズをいただいて、その楽しさに目覚めるようになりました。
もともと少しあまのじゃくな性格なので、ズームができない不便さや、自分で前後に動いて人動ズームをしなければいけないところが楽しくて仕方ありません。
何よりも、今まで大きなレンズだとあきらめていたような、本当に小さな小さな草花や苔の小さな胞子がくっきり映ることがうれしくて、いったんその世界に入ってしまうと、100メートルくらいの距離でも、もう2時間でも3時間でもそこにとどまっていられるほど楽しくて、全然先に進めなくなってしまいます…。
そして、個人的に気に入っているのは…、単焦点の小さなレンズを通して小さなものに集中して見ると、背景がふんわりとぼやけてそこだけを見ることになるので、何か他にないような情緒というか、詩のようなものが感じられる気がすることです…。
こんな風に大切に一つ一つの小さなお花や、秋の実や、苔の胞子の一つ一つを見つめていくと、今まで、心の中ではずっと願っていたのに、写真にするとなかなか実現できなかった、さりげない、小さな世界の中にあるものを大切に大切に思っていく、ということがこれからはできそうな気がして、本当にうれしいです。
思うに…、広角な視野の中でたくさんのものが視界に映っていく中で、ある大切なたった一つのものにフューチャーするということは、より感情的というか、情緒的というか、人の感情のあり方や、人間の心のあり方にも似ているのかもしれません…。
たとえば、心が落ち込んでいる時には、いつも通るいつも同じ道を歩いていても、なぜか枯れた落ち葉とか、小さな小さな実が苔の上に落ちているのとか、ちりぢりになった葉っぱとか、そういうものに目がいくように…。
心がうきうきしている時には、自然に視線も上に上がっていって、光を受けた葉っぱやおしゃれな街並みやきらきらしたものに目が向くように…。
あるいは、遠ざかってしまった過去の出来事を追憶する時に、印象的だったものや大好きだったものだけがくっきりと色鮮やかに思い浮かんできて、その他のものはぼんやりと霞んで見えるように……。
そんな話をしていた時、妹がこんなことを言ったので笑ってしまいました。
「たとえば、中学生の時に、好きな人ができたら、体育祭の時とかに、たくさん他の男子がいる中でも、その人のことだけ見てて、他の人はみんなぼやけて見えるみたいな、そういうこと??」と。
わたしは経験がないのでわかりませんが、多分そういうことだと思います…。
そんなことを思ううちに、わたしはあることを思いつきました。
「メランコリー」とか「失恋」とかテーマを決めて、それぞれの気分の時にふさわしい視点で、その時の気分にしか撮れない視野の写真を撮ってみようと…。
ただ、恋愛経験はおろか感情の浮き沈みがあまり激しくない方なので、今まではあまり自分の気分によって撮るものが変わったりということがありませんでした…。
でも、この単焦点レンズを使えば、より微細に、自分の気分のひだを写し取ることができるのではないか、と、ほのかに期待を寄せています。
むかし、絵を習っていた時に先生が「恋愛には興味がない」という子にこんなことを言っていました。「若いのにそんな風にひからびていていい作品ができるか。恋におぼれろ。複雑な恋愛をして悩め」と。
当時思春期だったわたしは、「やあね」と思っていたのですが、その後、徐々にその言葉がわかるような気がしてきました…。
絵だけでなくて、多分、文学研究をする時も、詩を読む時も、声楽をならって歌を歌う時も、ピアノを演奏する時も、少ししか経験はないですが、演劇をする時にも、そして写真を撮る時にも…。
恋愛をしたりすることで、ただ表層のきれい事だけでない感情の深い襞が見えてきたり、自分がこれまで思ってもみなかった自分自身を知ったり、人間の感情というものの複雑さ、恐ろしさ、矛盾、理屈では割り切れない奥深さを知ることができるのかもしれない…。と。
そして、そんな深い感情を経験した後には、多分もっと違った感性や感じ方が芽生えていて(よい意味でも悪い意味でも)、そういったものと向き合った経験があると、風景やお花や自然を眺めている時も、また全然違った世界が見えてくるのではないかな、と…。
その時先生がおっしゃっていたのは、そういうことだったのかもしれないな、と、当時画塾があった単線の小さな駅のあたりを歩く時、そんなことを思い出して少し感傷的な気持ちになります…。
そして、今のわたしの目標は、光や風によって刻一刻と移り変わっていく自然の風景とともに、変わってゆく自分自身の体感や気分や感情のようなものをもっと大切にして、その時その一瞬しか感じられないもの、その時の自分自身にしか見えない景色を表現すること、になりつつあります…。
ゆくゆくは、失恋した時には傷ついた心の痛みを感じられるような写真を、音楽が聞こえている時には、そこで流れていた音楽の調べが聞こえてくるような写真を、お花の写真を撮る時には、その時の温度や空気感、土の湿り気、雨のにおい、そういったものが伝わってくるような写真を――。
わたしのひそかな夢は、ただ目に映ったままの姿として、誰の目から見ても普通に美しい絶景ではなく、個人の感情や記憶や印象や思い入れや読書の経験、苦い思い出や恋の経験などのフィルターを通して心のスクリーンの中に映った、その時の自分自身にしか見えない心の風景、言うなれば「自分にとってだけの絶景」を写し取ることです…。
つまり、「写真」という、ある意味、「残酷なまでにあるがまま」の媒体を使って、風景の写実主義ではなく、風景の印象派、象徴主義を実現してみたいという野心が徐々に芽生えるようになってきました…。
そういった、ある意味、「独りよがり」な試みを始めるということは恐ろしいことでもありますが、一方で、新しい価値観を発掘するために知らない世界を探検しているようなどきどきすることでもあります。
イタリア文学者の河島英昭は20世紀の詩人、エウジェーニオ・モンターレについてこう語っています。
「モンターレの詩の功績は、醜く思われがちな岩屑を、荒々しい崖や岩を、詩に導き入れたことだ。 彼の詩は美をねらわないが、決して醜くない。
換言すれば、彼は脆く危うい美だけを詩に掬わなかった。
彼はこの天地を試金石としておのれの言葉を磨きながら、既成の詩や既成の学問への挑戦を絶えず果たしてきた。」と。
それを読んだ時、わたしも思いました。
わたしもまた、モンターレの詩のように、脆く危うい美だけをすくい取るのではなく、自然のフィールドの中に出て自分の表現を絶えず磨きながら、既成の概念、既成の観念に挑戦し、まだ誰も見つけたことのない、自分だけの美しさ、自分だけの絶景を一つでも多く見つけていきたい、と…。
そしてひどいメランコリーに襲われたり、逆に深い恋に落ちたりして感性や気持ちがとても敏感になって、何気ないことで心が震えたり揺れ動く思いを自分自身でももてあましていて悩む時には、そんな、繊細な感情の震えや、感傷的な気持ちになっている時にしか見えない心の情景、揺らぎのようなものさえも感じられるような写真を撮れるようになったらいいなと思っています。
でも、その前に、感情をもっと繊細にして、風景やものや音楽に夢中になったり失恋をしたり、感情的にも体験的にもいろいろな経験を積んでいかなければいけないのですが…。
25.Ottobre.
Antonin Dvorak: Vier Lieder
“Lasst mich Allein!” Op.82-1
アントニン・ドヴォルザーク
『4つの歌曲』より
「私を一人にしておいて」