Le Temps Retrouve':
見出された時
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“Album für die Jugend” Op.68 Robert Schumann
「こどものためのアルバム」
ローベルト・シューマン
「見出された時」 Le Temps Retrouve' COROMICO
「大きな誇りを持って、僕は今初めてこの大きな世界と結婚するのです。
その全ての広がりをもって芸術家の世界であり、また芸術家の故郷でもある
この世界と。
何かほっとするような美しい思いではないでしょうか。
こういう最初のひとしずくが広い大気の中に舞い散っても、もしかすると
あちらこちらで傷ついた心にとまって、その痛みを和らげ、その傷をおおう
かもしれないということは…。」 (ローベルト・シューマン 母への書簡より)
わたしが真剣に絵や写真を通して表現する、ということをしたいと思い始めたことにはちょっとしたきっかけがあります。
それは数年前、大病をして入院していた時のことでした…。
病気のために、それまで当たり前だったことが、何もかも当たり前ではなくなってしまって、今まで普通にできていたことが何もかもできなくなり、当時は、見るものも、聞くものも、自分から遠く乖離した、別世界のもののように思えて、何も現実感を伴って感じられなくなり、希望をなくして、ほとんど何も話すことも笑うことも、考えることもできなくなっていました。
そんな頃、やっと少し回復して外に出られるようになって初めて外出した時、
忘れられない体験をしました。
それまで何気なく、当たり前のように見ていた風景が、ものすごく鮮明に、
圧倒的な実在感と温度とにおいと色彩を伴って自分の前に現れてきました…。
何気なく咲く小さな草花たちの一つ一つが、ものすごく美しく、涙が出るほどなつかしく、うれしく、体に感じる太陽の光のあたたかさや、陽のさす野原のにおいも、信じられないほどすばらしくて、外の世界というのは、こんなにも
美しく、素晴らしいものだったんだと、驚きました。
その時、たとえ自分の能力が何もかも失われてしまっていたとしても、その
光や色やにおいや温度を感じる自分自身はまぎれもなく、自分自身なのだと、
自分はそこに生きているのだと思い、本当にそのことによってどうにか
生きていけるような思いがしました…。
それから、どんなささいなことでも、自分が確かにそれを感じている、
という断片を探して、何気ないように見えても、一度一度の、その一瞬しか
同じものを見ることができない風景と、その中にある美しさを感じ取ることを
何よりも大切に思うようになりました…。
一つ一つは小さなかけらのように思えても、それを何一つ捨てずに一つ一つ大切にあたためていくことで、少しでも自分自身の生きている時間というものをもてるのではないかと思ったからです。
その頃は、いつ自分がなくなってもおかしくないという感覚で生きていた
のですが、そんな風に手探りで必死に日々を過ごしていくうちに、徐々に
体調も戻り、それまで何も感じられない、現実感を伴って生きられない、
と思っていたのが、次第に自分の感情や感覚というものを持てるようになってきました。
徐々に元気になって少したった頃、自分が希望を失っていた時、何気なく
そこにある風景の美しさや、いつ刈られてもおかしくない、小さな小さな
草花たちが懸命に生きる姿の生命感あふれる姿に、いつもすごく支えられて
いたことに気づきました…。
そして、そんなたくさんの、何気なくあった美しいものたちへの感謝を込めて、草花や水の反映や光や風からたくさん与えられてきた、感動や希望や
命のようなものをどうにか、他の人にも伝えたいと思い、そして何らかの形で、真剣に表現をしたいと思うようになりました…。
写真をしているというと、多くの人々は、自分の技術や能力を誇示するものだと思ったり、被写体や対象の選択、絶景かどうか、ありふれていない
珍しいものかどうか、ということで判断し、そうでないものは切り捨て、
つまらないものだと冷笑することもあるみたいです…。
でも、わたしの目的はそういったことではなくて、ただただ、一番つらかった
時にわたしを生かしてくれた、たくさんの生命感あふれるものの美しさや
多様に変化していく姿を、他の誰かにも伝え、もしも希望をなくしている人が
いたら、同じように少しでもはげまされてほしいと思うからなんです…。
わたしが絵に描いたような絶景や、多くの人が求めるような観光写真的な、わかりやすく典型的で美しい、または珍しい、驚嘆するような風景でなく、
小さな草花や苔や、何気ない風景にこだわるのは、そういった珍しい、
誰にでもわかる美しい風景でなく、実は誰もが毎日目にしている何気ない
風景の中にたくさんの美しさや驚きがつまっているということを
伝えなくては、と思ったからです…。
それは、前衛芸術家のように、多くの人がしている表現ではなく、自分だけの独自の表現を求めてあえて、人と違うことをやってみる、とかそういう意識でもなく、ただただ、自分が明日生きていられるか、そのことが当たり前でなかった時期に、何気ない風景たちにたくさんの喜びと感動を与えてもらったから、
その感謝を、どこかにあらわしたい、というそんな思いだけでやってきました…。
そして、そんな特殊な状況にある人だけでなく、遠くの絶景や珍しい
瞬間だけでなく、本当に美しく大切に思える風景は、感性をとぎすませて
見つめたら、実はいつも自分の近くにもたくさんあるのだ、と気づくことが
できたら、多くの人が、比較したり序列をつけて蔑んだり切り捨てたり
することをしないで、もっとあたたかい気持ちになって、毎日幸せな感動を
感じられるんじゃないかなと思ったからです…。
今、わたしが心血を注いで自分の表現に磨きをかけているのもそのためで、せめてわたしの一生の間に少しでも、一人でもそんな幸せやあたたかさを
感じてくれたらいいなというか、そんなことが伝えられる表現ができたらいいなと思っています。
「私の魂のばらばらになった断片を集め、注意深く私自身のもとに
留まりましょう」 (『わが秘密』 Francesco Petrarca)
“Sonata Pour Piano et Violon en La Majeur”
Cezar Franck (mov.2)
Vn. Maxim Vengerov
「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」
セザール・フランク
“Sonata Pour Piano et Violon en La Majeur”
Cezar Franck (mov.3+4)
Vn. Maxim Vengerov
「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」
セザール・フランク