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Mondnacht: 月の夜

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「月の夜」 Mondnacht                                COROMICO

 

 「目には見て 手には取られぬ 月のうちの 桂のごとき 君にぞありける」

                                                「伊勢物語」

 

 個人的な話になりますが、月の夜、というと、どうしても心に残っている風景があります。

それは、わたしがイタリアに留学していた頃の話です。

 留学の期間が終わりに近づき、あと2日で日本に帰らなければならない、ということになった11月の末の夜中のこと……。

 

 その頃、わたしは体調を崩して家でねていました。
 それまで慣れない生活ですっかり外に出るのが怖くなってしまっていたものの、

いざ帰る日が近づくと、それまでいっしょの家で暮らしてきた友達と別れるのが

つらくなってしょげかえっていたからです。
 そんなわたしを心配して、スペイン人のヴィルジーニアがサプライズで、家で

まっていてくれて、見よう見まねで手作りの「うどん」を作ってくれて励ましてくれました。
 同じ家の違う部屋で暮らしていたアルゼンチンの心理学者、パメーラとダニエーラも家にアルゼンチンの女の子たちをたくさん呼んで、10人くらい集まってみんなで家族のように協力しあってトマトソースのパスタを作って食べて、みんなで別れを惜しんでくれました。

 

 わたしもそんな気持に応えたくて、友達へのほんのちょっとしたプレゼントを買いたくて、重い扉を開けて町へ出ました。

 木枯らしの舞う、ダウンジャケットなどがなければとても立っていられないような

寒い寒い冬の日でした。
 ほんの数日前に町はずれの公園でスケッチをしていた時に、ほとんど全てのお金を

とられてしまったため、もう持っているお金が5ユーロくらいしかありませんでした。
 Pasticcelia(お菓子屋さん)のおばさんにそのことを正直に打ち明けて、3ユーロ以内で友達4人にプレゼントを買わなければいけないのだけれど、と相談すると、最初は

厄介ものを見るような目つきで「お金がないなら何も買えるものはない。出直しておいで」と言いました。


 でも、今、学生で、しかも先日、お金を盗まれてしまって自分が食べるものもほとんどないということを訴えると、だんだんおばさんの表情がやわらかくなってきました。
 そして、言いました。

「わたしにも今、ボローニャに行っている娘がいて、学生が大変なのはよくわかる。

本を買ったりお金がいることばかりでみんな苦労していると聞くわ」と。
 そして、どうにか少しでも買えるお菓子を一緒に探してくれ、その上、「これは私の

気持ちだよ」と言って、いくつかおまけもつけてくれました。
 そしてたくさんお礼を言ってお店を出ようとするわたしに、こう言いました。
「昔、娘がつかっていたジャケットだけど、もう着ていないからあなたにあげるわ。

困ったことがあったらいつでも訪ねてきなさい。 地上にある持ち物は、

自分のものというだけじゃなくて、困っているみんなのものなのだからね」と。

 

 いよいよあさっての朝、出発して日本に帰らなければいけないという日の夜、わたしは

眠れなくてふと夜中に起きあがって、大好きだった窓辺に立ちました。
 そこはリビングのある部屋で、同じ家で暮らしている4人がいつも宿題をしたり、絵を

描いたり、一緒に食事をしたりしている部屋でした。
 その奥には、一度もつけたことのないテレビがあって、その横には、かつてのこの家の住人が掛けたであろう絵が――どことなく憂鬱そうな重苦しい色調でローマ時代の遺構や陰惨な感じの街道を描いた絵がかかり、その横に、ヘンゼルとグレーテルの竈のように

大きな窓が口を開けていました――。


 いつも一緒の部屋で寝起きしているポーランド人の司書、リリアーナが毎朝、神聖な

儀式を執り行う司祭のような緊迫した表情で、真冬だろうと雨だろうと絶対に欠かさず

朝晩の20分間、全開にしている窓でした。


 “Would you mind, if I open this window?”と毎日、きまってものすごく丁寧な口調で、それでいて絶対に譲れないというような厳粛な表情で彼女に尋問され、わたしも

聖体拝領を受ける子供のような緊張した面持ちで “Si',si',certo!” (もちろん)と答え、

それから、女司祭のような白づくめの格好をしたリリアーナが長い金色の髪を

なびかせながらちょっとうれしげな表情で、容赦なく吹きつける乾燥した北風(settentrionale)に吹かれているのを見るのが、すっかり毎日のわたしの日課と

なっていました…。

 

「日本に帰ったら、もうリリアーナにwould you mind? って聞かれなくなるんだな…」
 そう思うと、彼女のいつも決まって語尾の上がる、あの不思議な英語がなぜだか無性に懐かしくなって、窓辺に寄りかかりました。

 この町についた翌日、すぐにここから見える風景が大好きになって一日中、

へばりついて一番最初のスケッチをしたのがこの窓でした…。
 テーブルについてパンと紅茶で遅めのアフタヌーンティーをしていたリリアーナは

なぜかすごくびっくりしていました。 「Oh,my…! You are drawing!」
 そして眉間にものすごいしわを寄せて言いました。

「わたしは絵を描いたことなんかない。絵なんか描くのも見るのも大嫌い。だってうまく

描けないのだもの」。
 初対面にも関わらずのあまりにもつっけんどんな言い方に、わたしは驚きを通り越して、思わず笑ってしまいました。
「ついでに絵を描く人も嫌い。だいっきらいなの」

 そう言う彼女を見ているうちに、むしろリリアーナに好感を持ちはじめ、あまり仲良く

なれそうにはないけど、なんだか、かわいい人だな、と思ったことまで胸によみがえって

きました…。

 

 毎朝のリリアーナの神聖な日課を思い出しながら、わたしも厳粛な表情で重い重い

その窓を開けました。
 一瞬、ひゅうっと強い風が吹き、夜のにおいとともに、四角形に縁取られた、懐かしい

藍色の風景が姿を現しました。


 その先には、ウンブリアの、灰緑色をした、限りなく低地と低山のつらなるあの独特の

地形が広がっていました。
 心のうちで、何度なぞったかわからない、もう目をつむっていてもその形を描き出せる、あの、ちょっと複雑な形をした丘――。
 オリーブやオレンジの果樹園が低地全体に広がり、そのところどころに味わいのある

形をした小さな木がもじゃもじゃと生え、それらに圧迫されるように小さな邸宅や白い

壁の家が、遠慮がちにぽつんぽつんと点在し、夜になるとそれらに色とりどりの灯りが

少しずつ灯り始める様子はいつまでも飽きずに見ていられました……。
 教会の内陣にある、14世紀に作られたと言われる、町全体を描いたタピストリーに

描かれた頃の姿から、少しも変わることのない、Camerinoのいかめしくも、

こじんまりしていて親しみやすい姿がそこにありました。

 

 とは言っても、今は夜なので、あんなに何度も紙に描いた低地や低山の色あせた緑のグラデーションや砂糖菓子のようにかわいらしい、色とりどりの小さな集落は見えず……。
 その代わりに大きなまるい月が山の上にかかり、紺碧の、冴え冴えとした色の

キャンバスの中に、そこだけぽっかり大きな穴があいたように、煌々と強い光を

放っていました…。
 低地や畑にぽつんと生えた灰緑色の低木たちは、赤銅色の大地の上で、いつになく

強い光の月のスポットライトをあてられて、まるで急な出演にとまどっているステージ上の出演者のように、まごまごとためらいがちに、寒さに縮こまりながらその枝を空へ

伸ばしていました…。

 

 みなさんは、“Mondnacht”(月の夜)という曲をお聴きになったことがあるでしょうか…。
 ピアノの通奏低音によって刻々と刻まれる時のリズミカルな音の経過と、あらがえない

時の経過の中から、それを超え出て彼方を目指そうとする、憧れに満ちたメロディに

いつも胸がしめつけられる思いがします。
 恋をしているわけでもないのに、苦しい片思いをしているような、届かない憧れや

かなわない夢を追いかけているような、不思議な気分にさせられて、悲しくないのに、

なぜだか無性に切なくなって涙がこぼれそうになることさえあります。

 

 煌々と射し続ける月の光を見ていると、なぜか色々なことが思い出されてきて、

いつになく荒涼として見えるウンブリアの平地とそこに連なる山々を眺め、目の下に

広がる暗くて狭い路地を、一生懸命目を凝らして見つめました。

 

 そこは、演劇祭の夜、リリアーナがいつになく興奮して、たった一人でアップテンポな歌を口ずさみながら、何周も何周も顔を真っ赤にさせて町中を歩き回った、その路地でした。
 毎朝、日が昇ると重い扉を開けて、わたしが低血圧でよろめきながら、スケッチに

出るためにまだ誰もいない中、歩いていったその道でした。
 そして、アルゼンチンから来た女の子たちみんなで腕を組んだり抱き合いながら、

覚えたばかりのジョヴァノッティの歌を歌いながらそれぞれの家に向かったその道であり、ブラジル人の友達が集まってサプライズのお誕生日会をしてくれた日に、まだ何も

知らないリリアーナが警戒心むきだしの顔で通っていった道でもありました。
 

 その一本筋向かいには、オランダから来た画家のパウルが孤独に暮らしていた家が

あり、その二階にはロシア人のトランペット奏者のニックが、アルバロと一緒に

住んでいました。
 そのニックが、わたしが病気で学校に来られなかった時、ほとんど1日じゅう、町中を

歩き回って探してくれて、ようやく行き会った時、お互いに抱き合って「無事で本当に

よかった!」と何度も言ってくれた、その場所もそこから見えました…。

 

 窓辺に寄りかかって色々なことを思い出していると、同じ家に住むパメーラがそっと

近づいてきて、わたしの肩に手を置きました。
「眠れなくて…」と言うと、パメーラも神妙な表情でうなづきました。

「それはそうだと思う。だってこんなに明るい月の夜だから」
やがて、長い髪を揺らしながらダニエーラも起き出してきて、静かに窓辺に椅子を

引き寄せて座りました。
「わたしたち、今まで町の中を歩いてきたのよ。最後にこの町のことをみんなで目に

やきつけておきたくて…」
 

いつも陽気に、うきたつような笑顔で話すダニエーラの表情もどことなく悲しげでした。
「最後の夜。」パメーラがひくく歌うような口調で言いました。
「今日が最後の月の夜。Camerinoでの…。」
「でも、月はどこにいても同じ月が見られる。イタリアでもアルゼンチンでも日本でも。」

そう言ってパメーラはメッセージカードを渡してくれました。

そこには、彼女がいつも買っている冷凍食品のおまけのカードに、つたないイタリア語で「Ti voglio bene!」(大好き)と書いてありました。
 

 それから、わたしたちは月を眺めながら、リリアーナを起こさないように、声をひそめて

何時間もいろいろなことを話しました。

 

 翌日はとても朝早く、ひそかに楽しみにしている、リリアーナのあの朝の儀式を

見ることもなく、わたしたちは半分凍った、ごつごつとした石畳の道をうんうんうなりながら 荷物を引っ張り、ほとんど無言でバス・ターミナルへと急ぎました。
 リリアーナは途中で、「わたしはローマに向かいます。」と言って、一人、別の道へ別れていきました。

 低く、うつむきながら言いました。 「あの古い都へどうしてももう一度行ってみたいの」。
 霧が深く立ちこめる、凍るように冷たい冬の日の朝でした。
 “Grazie!”(ありがとう)と口々に叫ぶ声への返事もそこそこに、彼女はただ“Bye”とだけ言って去っていきました。 リリアーナもパメーラも一度も振り返りませんでした…。

 


 日本に帰ってしばらくした頃、突然パメーラから短いメールが届きました。
 本文にはただ、「Guarda!」(ほら)と書いてありました。
 開いてみると、そこには、あの日3人で窓から見た、最後の日のCamerinoの月の

写真がありました。
 冴え冴えと輝く鋼青色の空の上に、煌々と山々を照らす月がかかり――、それは普段

見たことのないくらい大きく、まるくて――月というものはいつもこんなに大きかったのかと思いました。
 その時もらった月の写真と、パメーラがくれたメッセージカードは今でもわたしの手元にあります。


 それは青く、冴え冴えと光り輝いていて、背景には無数の星々と「Bacino」(キス)

の文字が描かれています。
 それは夜風にそよぐ静かな森と瞬く星を思い起こさせました。まるであの日のように…。

 

 日本に帰ってきてからも、空をあおいで月を見るとその日の夜のことを思い出します。
 だからなのかもしれません。

 月が冴え冴えと輝く月の夜には、無性に何か懐かしいような、この場所を超えて、遠くへ駆けていきたくなるような、そんな気持にさせられるのは……。

 

 

 

“Mondnacht” (Liederkleis Op.39)

Nach Gedichten von Joseph von Eichendorff

Robert Schumann Sop. Barbara Bonney

 

「月の夜」 (「リーダークライス」 

 ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフの詩による連作歌曲集)

 

“Mondnacht”

 

Es war als hätt' der Himmel

Die Erde still geküßt,

Daß sie im Blütenschimmer

Von ihm nur träumen müßt.

 

Die Luft ging durch die Felder

Die Ähren wogten sacht,

Es rauschten leis die Wälder,

So sternklar war die Nacht.

 

Und meine Seele spannte

Weit ihre Flügel aus,

Flog durch die stillen Lande,

Als flöge sie nach Haus.

「月の夜」     ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ

 

それは夜空が大地にそっと
口づけしたかのようだった

大地が花たちのほのかな光の中で

天空のことだけを夢見ている様子は

 

そよ風が野原を渡り
麦の穂を密かに波打たせ、
森はひそやかにざわめいていた
そんな澄んだ星たちのきらめく夜だった

 

そしてぼくの魂は
翼をいっぱいに広げ、
静かな大地の上を羽ばたいていった
まるでわが家へ帰っていくように

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