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A Silvia: 

シルヴィアに

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「A Silvia  シルヴィアに」                                   COROMICO


 「人の子が来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはなりません。

 平和ではなく、剣をもたらすために来たのです。」(『マタイによる福音書10-34』)

 

 

 ジャコモ・レオパルディの「カンティ」(Canti)におさめられている詩、「シルヴィアに」(A Silvia)を読むと、なぜか、かつて知り合いだった人のことを思い出して、やや懐かしいようなほろ苦い気持になります。

 同時に、テネシー・ウィリアムズの戯曲、「ガラスの動物園」の悲劇的な結末のことも…。


 この詩は、純粋だった少女、シルヴィアが若くして病で亡くなってしまい、彼女の様子を遠くからずっと見てきた詩人は、残酷な時の経過を嘆くという内容なのですが、自分にそういう経験がなくても時々なぜかそういった感傷に浸りたくなることがあります。

 

 秋と冬の新作編を作っていた頃、わたし自身の身にもちょっとした事件が起きて、しばらくの間、写真というものに関わることがおそろしくなっていた時期がありました。

 それと共に、自分自身が写真というものをどう考えるのか、どう関わっていくのか、自分はどういった作品を作りたいのかということを根本から考え直さざるを得なくなりました。


 そのころ、人からなぜか突然激しい批判を受けることも続いて起き、一度は起きあがれなくなり、何ヶ月も写真を撮りにいけない状況が続きました。

 一つには、そういったことを考えるのに、いったんそれまで持っていたものを強制終了して、一から何もかもを考えなくてはいけなかったからというのもあったのかもしれません。

 

 きっかけは、ある人が口にしたひと言でした。
 わたしが自分自身にしかできない表現を探してもがきながら模索していた頃、試作品として作ったある写真集を見た時、その人が言いづらそうな顔をして言いました。
「一人よがりすぎる。ただの商品なのだから、もっと売れ筋のものばかりを集めて、一般受けするようなものを作るべきだ」と。
 それは、水辺の情景を集めて作った初めての試みの写真集でした。
青の情景や森の情景など、他にもたくさん心惹かれる風景はありますが、テーマごとに色々なものを試してみて、それでもやはり、自分がどうしてもこだわりたいと思ったのが、水面に反転して映る影の情景ではないかと、やっとその頃わかりかけてきた時のことでした。

 

 以前にもその人は、他のテーマの場合はともかくとして、水に映る影の写真を見た時だけは、ほぼ怒りに近いような激しい反応をすることがありました。
「思い入れが強すぎて自分ではそれがいいと思っているのだろうけど、もっと冷静になって見た方がよい」と言われたこともありました。

 その後、そういった反応がふつうなのだろうかと思って他の人にも意見を聞いたところ、似たような答えが返ってきました。
「綺麗は綺麗かもしれないけれど、こういった、ふつうなら美しいと見なさないような、形のはっきりしない偶発的なものを光の加減や色で美しく見せてしまうことは写真として間違っているのではないか」と。

 

 それ以外でも、特に悪気はなく、無造作な口調で「水面ばかり撮っているようだけど、何かねらっているの?」と聞かれたり、あまり共感してもらえないことの悩みを打ち明けると、「それが普通なの」と言われることもありました。

 

 そういったことが続いたので、自分のしていることがすっかりわからなくなってしまい、自分は意味のないこと、間違ったことをしているのではないかと虚しい思いに駆られ、しばらくは何も制作に関わることをしないでぼうっとしている日が続きました。

 

 そんな日々の中、ふと修学院離宮の参観に出かけた時、少し面白い出来事が起きました。
 予約していた日本人観光客の中に飛び込みで、途中から何人かの海外からの人も参加してきたのです。


 彼らの様子をじっと見ていると面白いことがわかりました。
 それは水に映る影に関して、日本人と海外の方では反応が全く異なることでした。

 日本人の見学者や引率者の方は、当然そういったものには関心を払わずに早足で通り過ぎて、珍しい建物や橋や山上からの展望など、形あるものに注目を払い、自然の風景に着目する場合も、紅葉や楓の葉などがほとんどで水面に映るものをのぞき込んだりする人はいませんでした。

 

 ところが、海外の方たちの様子を見ていると少し違っていました。
彼らは日本の人たちが早足で通過していた、水面の情景をとても興味深そうに眺め、時には、建物など形あるものがあまり映っていない水面でさえも、その微妙な色合いや、落ちた色とりどりの葉の作り出す微妙なグラデーションを興味深そうに見つめていました。

 しかも、よく観察していると、中国などアジア系の方とヨーロッパ系の観光客の方では微妙に反応が異なり、ヨーロッパ系の方たちは橋や建物がくっきりと水面に反転して映った、シンメトリーな水鏡を好んでいるのに対し、中国や台湾から来られた方は、もっと広角に自然の風景が水面の中に広範囲で映ったパノラマ的な情景を好む傾向があるように見えました。
 そのため、水面をのぞきこむことがあまりない日本人の方たちの足取りからは何となく遅れがちになり、もっと見たいのに、と離れがたそうな表情で見やっている様子がとても印象的でした。

 

 そんな人たちに出会って、これまで孤独な思いで一人、魅了されながら水面をのぞき込んでいたわたしは、何だかうれしく思いました。

 

 同時にこんなことを思いました。
 日本という国にだけいたら気づかないかもしれないですが、その国にはその国だけの固有の価値観や共通認識、イデオロギーのようなものがあり、人は知らず知らずのうちに、その国の持つ文化や美意識や価値観に従って、その影響のもとで美しいと感じたり判断したりしているのではないか、と。

 そしてそういった見えざるものが、これは美しい、これは価値がある、これは撮るに値する、といった区別、取捨選択というか価値判断を支配している部分があるのではないか、と。
 

 そうだとしたら、誰もが自分自身の感性で自由に美しい、すばらしいと感じていたと思っていても、実は見えない文化的なコード、規制のようなものによって縛られてその中で判断せざるを得なくなっているのではないかと思いました。

 

 とはいってもそれはおかしなことではないのかもしれません。
 というのは、そういった文化的な価値基準の、ある意味での一律性、平均性のようなものを満たしていなければ、(少なくとも同じ文化圏の人と)他者とコミュニケーションをとる時に、共感し、理解できる割合が少なくなってしまうからかもしれません。

 

 少なくとも、大多数と同じ価値観、同じ感性を持っていてそれを表現すれば他者とぶつかることもなく、それとは違う価値観をふつうだと感じる人たちに反感を持たれることもなく、また人に理解してもらえなくて悩むこともなく、平和に朗らかに同じ価値を共有して生きていくことができるのではないでしょうか。

 

 そして「一人よがり」、「写真として間違っている」とおっしゃった人も多分善意で、わたしのやろうとしていることは、そういった日本での一般的な価値観と違っているよと注意してくれたのかもしれません。

 

 けれども、どうしてでしょうか。
 にも関わらず、表現をしたいという思いを捨てられず、そういった日本での一般的な価値基準や通念のようなものを越えて、いったんそういったものを外して自由に自分だけの目であるがままに風景を見てみたいと思うのは……。

 

 時に強い口調で批判する人たちの声に押しつぶされそうになりつつも、一人になって考えてみた時には、どうしてもそんな思いを抑えきれない自分がいます。

 なぜなら、文化的な概念や価値観ではかって、「これは注目すべきだ」「取り上げるべき価値がある」とし、そうでないものは無視したり切り捨てたりすることは、芸術とはちょっと異なると思うからなんです。
 そうではなくて、むしろ社会的で一般的とされている価値を一歩越えた違う目を持って、まだ見いだされていないものの価値を見いだしたり、世間では黙殺されているものの美しさを見つけて表現したり、価値がないとして捨てられてきたもののよさを掬い上げることは芸術というものの尊い仕事ではないでしょうか。

 

 だからこそ、もし人と違う感性や価値観を持っていて悩んだり、人と共感しあえなくて孤独になっている人がいたとしたら、自分の個性には価値がないと感じて人をおそれて萎縮したり、自分の中に閉じこもらないでほしいのです。

 どうか自分の中にあるその感性を捨てないで大切にして、自分なりのやり方で表現できる方法を見つけていってもらえたら、と思わずにいられません。

 

 人と違う価値観で、多くの人が愛でるものと違うものをすばらしいと感じてしまう場合、そうでない場合と違って簡単に共感してもらえたり、理解を得られることが難しいかもしれません。
 でも、そうだとしても、そのことにくじけずに自分の表現に磨きをかけてさらに美しいものを追求していけば、いつかきっと誰かの心に届く日はあるのではないかと思います。

 

 言い換えれば、多くの人々が共有している価値観に沿ったものを作れば、共感を得て受け入れてもらいやすい分、それ以上のものを求めて必死で表現をとぎすませることを怠りがちになってしまう危険とも隣り合わせかもしれません。

 けれども、人と違う価値観を持って、時には激しい反感に打ちのめされながら進む場合、逆風が強い分、表現が鍛えられ、いつか共有の、一般的な価値観というフィルターを通さなくても人の心に伝わる美しさを見いだすことができるのではないでしょうか。

 

 そういった人と違った感性や価値観を持つ人には、ある種の可能性を感じているからです。

 いそがしい生活に追われ、心の余裕をなくしている時、多くの人に既に共有されている、ある価値にそって時には無意識的に価値判断をくだし、そうでないものをあまりよく考えずに否定したり切り捨てたり、となりがちな自分に気づかされることがあります。

 

 けれども、必ずしも一般的な通念として認められているわけではないものに触れ、その美しさに心打たれる時、いったん立ち止まって、今、自分の目の前にあるものそのものの姿と改めて向き合うことになります。

 そういった瞬間をあるいは居心地悪いと感じたり、ふだんと違った落ち着かない感じがしたり、ひどい時には感情を逆撫でされると感じたりすることもあるかもしれません。

 

 それでも従来の価値観から一瞬自由になり、自分たちが持っていた既存のコードからはみ出すものの価値を想像してみることを気づかせてくれる可能性を秘めた瞬間というのはやはり貴重で、スリリングで、そして人間にとってとても大切な体験だと思うのです。

Johannes Brahms
Piano Quintet F minor mov.3
 
ヨハンネス・ブラームス
「ピアノ5重奏曲」ヘ短調
 
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