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F-A-F

自由に、しかし楽しく

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Brahms,Sinfonie Nr 1 in C-Moll op. 68

Johannes Brahms

Direttore: Leonard Bernstein

「F-A-F  自由に、しかし楽しく」              COROMICO

 

 「世界に出るからには、手傷を負うことももとより覚悟しなければならないが、

 月桂冠や誉れの椰子の樹も待ち受けているだろう。
 私たちは彼を逞しい競争者として歓迎する」
                   『新しき道』 ローベルト・シューマン

 

 新しい表現を模索すること、または自分だけの表現を通して創造することはどういうことか、ということを考えている時にいつも心に浮かんでくる曲と、それとセットのように浮かぶ言葉があります。

 それは、ブラームスの交響曲第1番と「F-A-F (自由に、しかし楽しく)」という言葉です。

 

 F-A-Fとは、1883年に作曲されたブラームスの交響曲第3番(o.p.90)の主要モチーフになっているテーマでもありますが、この言葉はブラームスという人間の音楽の根幹に関わる大切なテーマであるような気がします。

 20代の頃、親友でヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムの座右の銘、「F-A-E: 自由に、しかし孤独に」に共鳴してその音型を使ったF-A-Eソナタの作曲に参加したブラームスが、その後どのような道をたどって、F-A-Eと対称をなすような言葉、F-A-Fで作曲をするに至ったのか、それは、彼がまだ20代だった頃の出来事と、それから20年以上を経て、交響曲第1番を作曲するに至った経緯が密接に関係しているように思います。

 

 20歳でシューマンと出会ったばかりの頃のブラームスは、当時、シューマンから「幻想力に溢れている」と評されていました。
 

 この場合での幻想力とは、自由なイマジネーションや幻想的な雰囲気を意味するだけでなく、シューベルトの「さすらい人幻想曲」に代表されるような、自由な即興によって主題を変奏させていく幻想曲を展開するような、音楽の即興的な力をも意味しているように思います。

 

 当時のブラームスはまだ世に出始めたばかりの才気煥発な青年で、彼との出会いに衝撃を受けたローベルト・シューマンは、(当時43歳でした)いち早く彼の才能を認め、音楽家としてのキャリアの出発を祝福し、その可能性に期待を寄せる文章をしたため、「新しき道」として音楽評論誌に発表しました。
 また、音楽家二人の友人としての交流も始まり、20歳以上も年の離れたシューマンとブラームスは師弟関係にとどまらない、強い友情で結ばれるようになりました。

 

 ところが、その後、シューマンの神経衰弱とも言われる症状は急速に悪化し、ブラームスに出会った翌年の1854年には自殺を企図してライン川に身を投げてしまいます。
 その後、精神病院に収容されたシューマンは、病状が回復しないまま、エンデニヒの療養所の中で1856年に46歳でこの世を去りました。

 

 シューマンの精神的な衰弱とその死は、彼の入院中も友人としての関係を忘れず、見舞いに訪れ続け、彼の妻、クラーラなど、のこされた家族の支えにもなっていたブラームスにとっても衝撃的な出来事でした。
 一説には、彼の自殺未遂と神経的な不調には、妻クラーラと、彼の自宅に住まうことになっていた若い天才、ブラームスとの恋愛関係への疑惑や苦悩も関係していたとも言われています。

 

 その後、シューマンに絶賛されて世に出始めたブラームスには、しかし、その後長く続く、プレッシャーと葛藤の日々が待ち受けることになります。
 当時の音楽的な状況の中では、作曲家として一定の評価を得るためには、交響曲作品の作曲が一つの不可欠な要素とみなされていました。
 シューマンにその交響的な才能を見いだされたブラームスにも当然、そういった期待が一身に集まっていたわけですが、彼は、その後、規模としてはやや小さいともいえる、歌曲や室内楽曲の作曲に従事し、期待されつづけた交響曲の作曲としては沈黙を守る日々が何年も続きました。

 

 当時のブラームスの人となりを物語るようなエピソードが残っています。
 彼の弟子だった人の書いた聞き書きによると、ウィーンに移住したばかりの30代の頃のブラームスは、歌曲の作曲家、また優れた音楽教師として知られていて、彼をたよって訪れてくる作曲家志望の若者たちには、誰に対しても丁寧に、かつ親身になって添削、指導したと言われています。


 指導に熱意があふれるあまりに、時には癇癪を起こしたり、弟子たちの不十分だと思われる部分には容赦ない言葉を浴びせることもありましたが、内心は暖かく、能力の関係から音楽の道を断念せざるを得なくなっていった若者たちにも、親身になって援助し、その次の進路を考えてくれたと伝えられています。
 

 彼が、そんな作曲家志望者たちにいつも言ってきかせたといわれている言葉があります。
「いいかい。神経質になっちゃだめだよ。大らかに、楽しく。」

 この言葉は、ブラームスの音楽的な方向性と覚悟を象徴しているように思います。
 

 この後、彼は1876年、43歳の時に初めての交響曲、第1番をついに作曲するのですが、その曲を聴いていると、ブラームスという人間の、20代の時に背負った苦悩と、それから一つの答えに至るまでの葛藤をうかがい知ることができるように思います。

 

 交響曲第1番は、重い苦悩と、罪の意識を一身に背負ったような、重々しい和音と打楽器の打撃が痛々しいような、短調で始まります。
 深い悲しみに閉ざされたレクイエムのような美しいメロディがその後に続き、悲壮感を背負った英雄的なメロディと、憂鬱そうなメロディが交互に表れ、悲喜こもごもの複雑な感情を表現しているように思えます。
 そして、楽章を追うにつれて、夢を抱きしめているような、愛を意味するような美しいロマンティックな主題が表れ、ついで霧の中をさまよっているような瞑想的で憂鬱なテーマが表れ、しだいに強い意志を感じさせるような力強い主題が奏でられ、次第に霧が晴れて光が差し込んでくるような印象を受けます。
 そして、最終楽章では、閉ざされた谷間を抜けて急に広い場所に出たような、壮大な、そして大らかなテーマがゆったりと奏でられます。

 

 わたしはこの曲を聴くたびに、重い罪の意識と苦しい記憶を背負っていた人間が、長い年月の間続いた葛藤と苦悩の悪戦苦闘の時を経て、やがて許しの瞬間が訪れて自由に解きはなたれる、という物語を感じられます。

 そして、苦しみを乗り越えて自由になった最終楽章では、大らかに、自由に、表現する者として生きている喜びを感じながらのびのびとメロディーを歌っている感じがして、胸が熱くなります。

 

 思うに、師であり、信頼しあう友人でもあったシューマンの精神的な変調と、神経的にも体力的にも衰弱しきった末のその死を見届けてしまった若い頃のブラームスには、一つの恐怖が兆していたのではないでしょうか。
 それは、神経的になりすぎることの危険性というものだったのかもしれません。
 あるいは、幻想や想像力に身をゆだねすぎて、その世界に取り込まれることの恐怖と言い換えてもいいかもしれません。

 

 そして、その要素は、当時がブラームス自身が、シューマンから「幻想力に溢れている」と評されるほどに、彼自身も持っていた要素だったのではないでしょうか。
 最後の頃には、幻聴や幻覚に悩まされ、現実の世界と幻想の世界の出来事の区別がつかなくなっていったシューマンの痛々しい姿を最後まで見届けてしまったブラームスは、神経的にとぎすまし、想像力の世界で自らの創造性を発揮していくことの危険性を見せつけられてしまったのではないでしょうか。

 

 そこには、シューマンの精神がそこまで追いつめられた原因は自分かもしれないという恐怖や許されない罪を抱えてしまったという罪悪感も働いていたかもしれません。

 その後、20年近くにも及ぶ、ブラームスの交響的な作品における沈黙は、そういったところに兆していたのではないかと思えてなりません。

 

その後、ウィーンに移住して歌曲や室内楽曲の作曲に従事している間、彼は自身の資質の中に豊かに存在している幻想力を生かしながらも、神経的な幻想性に飲み込まれない強さを持った形式とを両立させ、それによって主題や旋律をより自由に、大らかに飛翔させる術を見いだそうとしていたのではないでしょうか。

 

 そして、そんな彼にとって、「F-A-F: 自由に、しかし楽しく」という言葉は同時に、彼の音楽の根幹を象徴している、あるいは象徴させようと願っていたテーマでもあるかもしれません。

 それは、自由に、独創的な発想力で自身の世界を展開しつつも、神経的な幻想や情緒におぼれて取り込まれることなく、しかしその世界と完全に訣別することもなく、ほどよく距離を保ちつつその世界を遺憾なく発揮することができるということではないでしょうか。

 

そして、それを可能にするために必要だったのは、たゆまぬ研究や過去に生み出された形式の探求や模索、努力によって、奔放な幻想性を発揮しつつもそれに取り込まれないほどの表現や形式の強靱性を手に入れる、ということだったのかもしれません。

 

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