À Chloris
クロリスに
“À Chloris ”
Poesia: Theophile de Viau
S'il est vrai, Chloris, que tu m'aimes,
(Mais j'entends, que tu m'aimes bien,)
Je ne crois pas que les rois mêmes
Aient un bonheur pareil au mien.
Que la mort serait importune
A venir changer ma fortune
Pour la félicité des cieux!
Tout ce qu'on dit de l'ambroisie
Ne touche point ma fantaisie
Au prix des grâces de tes yeux.
「クロリスに」
テオフィル・ド・ヴィオー
君が僕のことを愛しているというのが本当なら、クロリス、
(とても愛してくれているというのは知っているんだけどね)
たとえ王侯でさえも
僕と同じほどの喜びを持ってはいないだろうと思う
もし天国の幸福と引き替えに
僕の喜びを奪うのだとしたら
死とはなんと厄介なものだろう
人々が天上の食物について言うどんなことも
僕の幻想を呼び起こしはしないだろう
君の瞳の優美さとつりあうほどには
“À Chloris”
Poesia: Theophile de Viau/musica:Reynaldo Hahn
Ct. Philippe Jaroussky
「春を待つひと」 COROMICO
レイナルド・アーンの歌曲、「クロリスに」を聴いているといつも「春を待つ人」という言葉が思い浮かんできます。
不思議に思って調べていたら、「クロリス」というのは、ギリシャ神話に出てくる美しいニンフの名前で、花の女神、「フローラ」と同一人物だったのです。
オウィディウスの「変身物語」にその経緯が記されているのですが、彼女はもともと草花の精でクロリスとは、「若草色の娘」を意味しています。
悲惨な出来事で母を失い、悲しみにくれていたクロリスがある日、
野原を歩いていると西風の神、ゼヒュロス(Zefiro)が現れ、たちまち彼女を愛し、自分の住むイタリアへと連れて帰ります。
ゼヒュロスの愛を受け入れたクロリスは、たちまちその姿が変容し、きらめくように美しい花の女神、フローラ(Flora)へと変わります。
あの有名なボッティチェッリの「春」(Primavera)もクロリスのその劇的な変容の瞬間を描いたと言われています。
イタリアでは特にゼヒュロスは凍った季節に現れて最初の春をもたらす西風の神として大切な存在であり、同じくボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」(La Nascita di Venere)でも、生まれたばかりのヴィーナスを岸辺に運ぶゼヒュロスと、彼の腕にしっかりと抱かれたクロリスが描かれ、美の誕生が春の到来や愛と関連していることを暗示しています。
18世紀のフランスの詩人、テオフィル・ド・ヴィオーの「クロリスに」はおそらく、そんな物語を下敷きにしていて、この詩では逆に、彼女を愛する詩人は、もしもクロリスの愛を受けられるなら天上の喜びにも勝る、と恋する喜びをうたいます。
アーンの音楽の方は、バッハのような厳かな低音の伴奏が鳴り響く中、恋する微熱を秘めて、穏やかにゆっくり、喜びをかみしめるように静かに始まります。
そして二節に入り、死の予感が歌われる時、伴奏はためらいがちに独奏となって心細そうに同じところを行きつ戻りつします。
まるで詩人が愛されない恐怖に襲われて、不安のあまり、あたりを歩き回っているかのように思えます。
そう考えていると、ここに語られている「死」とは、もしかしたらクロリスに愛されない苦しみでもあるのかな、という気がしてきます。
愛される喜びと同時に死をうたうこと、また恋する人の瞳の優美な美しさを表現するところなど、この時代には珍しい表現ではなかったとは言え、イタリアの詩人、フランチェスコ・ペトラルカの影響を何となく感じられてとても興味深い気がします。
天上の神々が味わうような至福よりも、自分は地上に生きて、クロリスの愛を受ける「幸運」(fortune)を選びたい、という願いはとても高らかに、のびやかに人間であることの喜びを歌っているように思えます。
幸運(fortune)は、それと対比されている天上の幸せ(félicité)に対して地上的なものなので、時には不幸に転じたり、不安定で移ろいやすいものをも意味するのですが、それはやはり、恋する人の心というものは不安定で、愛する人を失ったり、心変わりをしてしまえば一気にそれが不幸に変わることもあるからだと思います。
それでも、変わることない至福を受けるよりも、移ろいやすくても地上での恋の喜びを大切にしたいというこの詩は、何となく、ルネサンスの時代の初々しい、人間讃歌の目覚めを思い起こさせられて、ためらいながらも一気に春が到来したような、心がうきたつような思いがします。